【ヨナ抜き音階と日本の音楽教育 全12記事】
(一)近代教育の開拓者 伊沢修二
(二)近代音楽教育が目指したゴール
(三)伊沢修二の実験と理屈
(四)長調への拘りと体操教育での経験
(五)たどり着いた答え『呂音階』
(六)呂音階の推進を後押しするもの
(七)集大成『小学唱歌集』に見られる拘り
(八)伊沢修二に対する批判と民謡音階
(九)伊沢修二とヨナ抜き音階が残したもの
(十)童謡『赤とんぼ』の解析
(十一)『パプリカ』の解析
(十二)そして、よなおしギターへ
『パプリカ』のヒットの要因
米津玄師の作詞作曲により2018年8月にリリースされた『パプリカ』。NHK2020年応援ソングプロジェクト、第61回日本レコード大賞受賞、第70回紅白歌合戦出場、Youtubeでの動画再生回数一億回以上、まさに社会現象となったヒット曲である。『パプリカ』のようにある曲が爆発的にヒットすると、専門家でなくとも『何がヒットの要因か?』と知りたくなるのが人の性というもの。『パプリカ』もその例に漏れず、多方面からヒット要因の解明がなされている。
特に音楽理論に明るい専門家からこの曲のヒット要因の1つとして挙げられているのが『ヨナ抜き音階』だ。
そこで『パプリカ』のメロディを調べてみると、確かにAメロとサビのメロディはほぼヨナ抜き音階で出来ている。Aメロでは1回、サビでは2回、ヨナ抜き音階以外の音が出てくるだけである。ただ、Aメロとサビはキイが変わっている(転調してる)ので、判別は少し難しい。そして、Bメロはヨナ抜き音階を使っているとは言えない。
もし「パプリカはヨナ抜き音階で出来ているのか?」と聞かれたら、「この曲はヨナ抜き音階が多く使われている」と言っても差し支えないレベルではあるだろう。
ただもちろん、ヨナ抜き音階を多用すれば必ず曲がヒットするという訳ではないはずだ。もしかすると、『パプリカ』が社会現象とまで言われるほどヒットとした要因が他にあるのかもしれない。
もしまだ誰も気が付いていないヒットの要因があるとしたら…
そう考えると、私もかなり興味が湧いてくるのである。
この曲のメロディがヨナ抜き音階を使いつつどのように作られていき何故ここまでヒットしたのか?私なりに解析してみたいと思う。
ただ、それにはまず『ヨナ抜き音階』という魔法の杖をいつどこで誰が何のために作ったのかを調べ、そこから分かる日本の音楽教育の始まりを見ていく必要がある。
【先に『パプリカ』の秘密を知りたい方はこちら⇒】 ヨナ抜き音階と日本の音楽教育(十一)~パプリカの解析~
ヨナ抜き音階とは?
私が『ヨナ抜き音階』のことを説明する場合には以下のように言う。「ドレミファソラシから4番目のファと7番目のシが抜けた音階で、明治時代に作られました。この音階で多くの童謡や唱歌が作られています」
この説明は、ヨナ抜き音階を一言で分かりやすく、さらにこの音階の優位性を示すためにかなり盛った文言となっている。嘘を言っているわけではないが、専門家が聞いたら「その説明は違うよ」と言われる可能性はある。その評価は甘んじて受けるつもりだ。
私自身、色々調べても『ヨナ抜き音階』という言葉を始めに言い出した人物、あるいは文献などを見つけることが出来ないでいる。ただ、この音階が明治時代から後に日本に浸透したのは本当で、時々ヨナ抜き音階を日本に何百年あるいは千年以上も伝わる古典的な音階だと勘違いする方がいるが、それはあまり正しくない。ヨナ抜き音階という概念ができてからまだ140年ほどしか経っていないのだ。
そもそも『ヨナ抜き』というネーミング自体が『ドレミファソラシ』という音階が元になっているのは明白だ。その『ドレミファソラシ』という現在我々が最も慣れ親しんでいる音階はもともと西洋の音楽理論である。その西洋の音階が学ぶべきものとして輸入されたのは、他の多くの西洋文化が入ってきたのと同じ文明開化の時だ。
つまり、『ヨナ抜き』という言葉を使っている以上、西洋の音楽理論を元に作られた言葉であり、新しい概念であるのは間違いないだろう。
先ほど書いたように、『ヨナ抜き音階』という言葉を言い出したのが誰でそれがいつなのかは把握していないが、この音階を「今後の日本の音楽教育で使っていこう」と考え実際に日本に浸透させた人物はハッキリわかっている。
明治以降の近代教育に多大な功績を残した偉人、伊沢修二だ。
近代教育の開拓者 伊沢修二
伊沢修二は1853年に信濃国(長野県)の小藩、高遠藩の城下に武士の子として生まれた。10人兄弟の長男で、その生活は貧乏を極めていたらしい。その中にあって、父親はとても勤勉で非常に真面目な性格であり、母親もまた卑怯や臆病を許さない教育をしていたようだ。伊沢修二は長男として、そのような両親の影響や教えをしっかりと受け継いでいたようである。さらに、彼の生れた高遠藩に設立されていた藩校や私塾では優秀な教師による質の高い教育が行われていたことも幸いし、そのような環境で育った伊沢は、素読、習字、算数、漢詩、和歌、科学、工学、英語、オランダ語、法学、兵学等々、とにかく猛烈に勉学に励んだという。とくに、工学や科学の実験などは好きだったようだ。
明治2年(1869年)に江戸が東京となり新政府による維新の改革が進む中で、教育政策の重要性がクローズアップされた。その政策の一環として、のちの官吏となるべく優秀な人材を全国の各藩から召集したとき、高遠藩からは伊沢修二が一人選ばれた。その後、明治4年の廃藩置県直後に設けられた文部省に入ることとなり、明治7年にはその優秀さと実直さが買われ、24歳にして出来たばかりの愛知師範学校の校長に命ぜられている。
愛知師範学校でもその超能力のような予見が発揮され、それに伴う実験的な取り組みを様々行った。その1つに、師範学校の付属機関として今でいう幼稚園的なものを設立し、そこで唱歌を使った遊戯を行い成果を上げたというものもある。恐らくこの時、唱歌が子供たちに与える影響を目の当たりにし、それは成功体験として伊沢の胸に刻まれたであろう。
これら師範学校でのさまざまな取り組みが認められ、さらなる飛躍へとつながっていく。
明治8年、海外の師範学校を取り調べるため、文部省は3名の留学生を米国に派遣するが、その中の1人に伊沢修二が選ばれた。伊沢は米国のマサチュセッツ州にあるブリッジウォーター師範学校に入学した(その後ハーバード大学にも入学している)。ブリッジウォーター師範学校でも持ち前の勤勉さで中々の成績を打ち出しているが、ただどうしても苦手な科目があった。
それが『音楽』だ。
貧乏なお侍の家に生れた伊沢は、小さな頃から楽器や声楽を習うようなことは無かったであろう。唯一、藩の軍兵を鼓舞するための鼓笛隊に選ばれ、そこで太鼓役をやった。これは後に指南役までなっているが、それでも音楽の理屈を学ぶまではいっていないであろう。何より、当時の日本の音楽と西洋の音楽とではその理論には相当の隔たりがあった。
その点を考慮され、師範学校の校長からは『音楽』の修業を免除しても良いと言われたが、実直で負けず嫌いの伊沢は納得できず、ここでも猛烈に勉強し、とうとう卒業までに音楽も修業することが出来たという。
この時に教えを請うた音楽の師が、後に日本で音楽取調掛のメンバーとして一緒に音楽教育の研究をすることとなる音楽教師メーソンだ。
恐らくこの留学経験で伊沢は、他の学問以上に日本の音楽教育は遅れていると感じたであろう。愛知師範学校の校長時代の経験も含め、音楽が人間に与える影響の大きさと、その教育の遅れとのギャップに相当の危機感を持ったのではないだろうか。
帰国を前に、文部省に対し音楽の必要性やその効果、外国と対等に交際するためには日本固有の国民音楽(国楽)が大切であることなどを説くと同時に、音楽教育のための教師の育成や楽器の購入などを進言している。その願いが受け入れられ、帰国後の明治12年(1879年)には音楽取調掛(後の東京音楽学校)が設立され所長に任命されることとなった。
いよいよ『ヨナ抜き音階』誕生の場が整ったのである。
次の記事へ⇒(二)近代音楽教育が目指したゴール
【ヨナ抜き音階と日本の音楽教育 全12記事】
(一)近代教育の開拓者 伊沢修二
(二)近代音楽教育が目指したゴール
(三)伊沢修二の実験と理屈
(四)長調への拘りと体操教育での経験
(五)たどり着いた答え『呂音階』
(六)呂音階の推進を後押しするもの
(七)集大成『小学唱歌集』に見られる拘り
(八)伊沢修二に対する批判と民謡音階
(九)伊沢修二とヨナ抜き音階が残したもの
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